日記、あるいは、ある断章の提示
1999-3/2〜14




『アルトーが自分の知的苦痛を描写するのに用いた隠喩は、精神を論じるのに、明確な権利の根拠を決してもちえない財産(あるいはその根拠が失われてしまった財産)として、さもなければ非妥協的な、はかない、不安定な、そして猥雑なほどかわりやすい物質的実体として扱っている。一九二一年、二十五歳の彼はすでに、自分にとって問題なのは、自分の精神を《ことごとく》所有することがどうしてもできないことだと述べている。一九二○年代を通じて彼は、自分の思考が彼を《捨てる》、自分の思考を《見いだす》ことができない、自分の精神に《辿りつく》ことができない、言語にたいする理解力を《失って》しまい、思考の形態を《忘れて》しまったと嘆く。より直接的な隠喩をもちいて、彼は思考の慢性的腐食にたいして、自分の思想が足許で崩れてしまうか漏れてなくなってしまうその仕方にたいして怒り狂う。自分の心を、ひびわれたもの、悪化しつつあるもの、鈍化しつつあるもの、凝固しつつあるもの、空っぽなもの、濃密でそのなかに入りこめないものとして描く。言葉が腐るのだ。アルトーは自分の《自我》が考えているかどうかについての疑念に苦しんでいるのではない、自分自身の思考をもっていないという確信が彼を苦しめるのだ。自分には思考能力がないといっているのではない、《思想》をもっていないというのである---そして彼のいう思想とは、正しい考えをもつとか正しい判断を下すかという次元をはるかに超えるものなのだ。《思想をもつ》ということは、思想がそれ自体を支えるさいのプロセスがそれ自体に明示すること、そして《感触と生命のあらゆる状況にたいして》責任を負うべきものであることを意味する。アルトーが思想を《もって》いないと主張するのは、その意味でなのだ。いいかえれば、思想をそれ自体の主体であると同時に客体でもあるものとして扱う思想、という意味においてである。ヘーゲル的な、劇作家の、自己を凝視する意識が、いかにして完全な疎外状態に達しうるか(超然として理解に富む叡知にではなく)をアルトーは示している---なぜなら心はひとつの客体としてとどまるからである。』スーザン・ソンタグ「アルトーへのアプローチ」より・みすず書房・岩崎力訳

昨日、場末の飲み屋でちびちびやっていると、常連風の中年男2名が同席した。もうかなり飲んでいて、ひとりはかつて演劇をやっていたようで、いろいろぶっている。彼は青森県八戸出身、もうひとりは山形県出身という。わたしが新潟だというと嬉しそうにさらに話し込んでくる。私が実際の歳よりも若く見えたらしく、演劇や映画のことを結構知っていることに驚きながらもさらに盛り上がる。最後は握手をして、お先に失礼となったが、そういえば彼はアルトーに似ていた。(2/Mar/1999 T.S.)

アルトーを語ること、それを文字にすることの難しさは誰もが感じていることであろう。ソンタグはかなり前からアルトーに言及していたし、この作家論は1973年のものである。日本での初版は1982年で再版は1998年6月。先日、私はたまたま書店の本棚で見つけた。夏場、山奥に引っ込んでいるので新刊情報はまったく無かったのである。かつてロラン・バルトがソンタグと会ったときに「スーザン、いつも真面目だね。」と挨拶をかわしたと伝えられているが、ソンタグのアプローチの誠実さは文章に溢れていると思う。(3/Mar/1999 T.S.)

すぐ前の車の後者席には3歳くらいの少女がキティちゃんで遊んでいる。甲州街道をのぼっていて、ずっと同じくらいのスピードなのですぐ後ろを走ることが多い。少女はシートに隠れてみたり、キティちゃんを顔の前にもってきたりするが、なんとなくこっちを見ている。車をドライブしていて子供に見られることは多いような気がする。髭面でおもしろい顔なのだろうか。この視線は何度も感じたなと考えていてハットした。そういえば山奥で動物に出会ったときに何秒か見つめ合うことがある。言葉ではない何かを感じて見つめる。3歳という年頃は人間でも動物でもない微妙な時期。彼女ももうすぐあの視線を無くしてしまうのだろう。(4/Mar/1999 T.S.)

5、6年前、ベルギービールバーの厨房をやっていたころ、お店(4店舗あった)のパンフを改訂するというので、店舗の写真を撮って文章を書いた。文章は一夜ででっちあげたものだが、まだ使ってもらえているのだろうか。手元にないが思い出してみる。黄昏時(クレプスキュール)とは親会社のレコードレーベル名である。
『黄昏時の雑踏は忘却と回想の迷路だ。その彷徨の行きさきには情熱も、ドグマも、モードもない無関心という友情の詰まった箱がある。その腐食した空間を埋める共犯者達に労働への愛は禁句である。ここで重力は尻に重く、口唇には軽く働く。天文学を偏愛する男は饒舌に口説くが、女はただセルロイドの肉体に豊穣の液体を流し込むだけだ。グラスに溢れる恍惚の呪文が今宵も卓上の磁場を歪めていく。狂気にも健康にもなれない疑偏執者たちは、愚昧を渇望し蜃気楼を語りながら黎明をむかえる。大地と麦と水の大いなる戯れを友として。』(5/Mar/1999 T.S.)

遅いお昼にタイラーメン屋にいった。いわゆる屋台風の味の店で、店の造りも味も上品ではないのだが、なぜかBGMはジャズで、切ない女性ボーカルが流れているのが場違いだ。そういえばいつもこんな風だなと思いつつ従業員を見渡すと、皆いかつい顔だし、東南アジア系女性従業員は「アリシター」と舌っ足らずに叫んでいる。でも値段はふつうの日本ラーメン屋よりは高いし、雑誌にものって結構はやっているみたいだから、経営者は高額所得者であるに違いない。BGMはその経営者の趣味なのかと思ってもみるがよく分からない。私の夏の山小屋でもジャズやボサノヴァはかけるが、きっとこんな山奥には場違いだと言ってる客もいるのだろうと考えた。客に偽物のストーリーを信じ込ませることがマーケッテイングなのだし、自然のなかではそれらしさを求められるのだ。(7/Mar/1999 T.S.)

兎に角、そばブームのようだ。周辺でもそば打ちに興じる輩は多いし、なんといってもNHK教育で連載番組が出来ているのがすごい。ワインブームにそばブームと実に文化的(?)な響きがあり、結構コケッコーといった感じか。私もそばは子供の頃から好きで、わざわざ遠くの店までいったりはする。でもその日使うそば粉の産地でもそばは違うし、主人の気分で旨く出来たり出来なかったりするから、ハズレも含めて甘受せざるを得ないのがそばだと思っている。だいいち、そばのスタイルも好みも無限にあるし、序列をつけられない代物でミシュラン化はほぼ不可能だ。前述したNHK教育は中高年のための登山シリーズもやっていて、山を観光地化し、老人が高山植物に囲まれてのたれ死にすることを勧めている。(8/Mar/1999 T.S.)

引きつづいて、そば屋考。そば屋はほかの飯屋とは一線画すという感じは皆もっているのではないか。仏料理などでは郊外まではわざわざ行かない。酒だけ飲んで結局そばは食わずに帰ってくるなど、他の食事所では考えられない。そばが不味くて文句は言っても、文句を言うことも楽しんでいる。そばを楽しむというよりプロセスを楽しんでいる所がある。そばはエンドマークに過ぎず、場を供給しているという事ではカフェのようでもあり、江戸の文化を表している気がする。エンドマークだから大晦日に食うのだろうか。(9/Mar/1999 T.S.)

仕事もあるのだが、ゴロゴロしてTVを観ている。都知事選も佳境に入り石原氏が立候補表明し、ワイドショーでも3時の会見を生中継する。会見は始まったのだが、米、中との諸問題や過去の政治的裏事情や自らの著書のことなど、都政とは直接関係はあるのかなと思う事柄まで長々としゃべってる。独演会という感じだ。TV局はしびれを切らして中継を中断し、次の話題「だんご3兄弟」へ。石原氏はTV局をおちょくる意味もあってやっているのかと思い、それが面白かった。番組は事前にスケジュールが決まっていて変更などきかないのだろうし、変更を指示できる責任者などいないのであろう。しかも他の局も同じ対応だった。横並びと危機管理のなさを行政などにつきつけているマスコミも同じ穴の狢なのである。(10/Mar/1999 T.S.)

ダンゴ三兄弟が話題のようだ。なぜ売れるのかという分析や、ダンゴ屋がはやっている事をワイドショーで色々言っているのだが、なんだか豊かな気分にはならない。流行ものにたいしてゲップがでるのは私が年をとったという事だろうか。「みんなの歌」にはかつてトレロカモミーロ(題名がちがってるかも知れない)という名曲があった事を思い出した。(11/Mar/1999 T.S.)

曙橋で通りがかった飲み屋に入る。店構えで判断したのだが悪くない。いい酒もたくさんあって、状態も問題ないし飲んべえ向きのつまみもそこそこある。フジTVが移ってしまって景気は良くないと主人は言っていたが、そろそろ送別会シーズンなのかサラリーマンが結構入っていた。あとは客層を確認するために何度か足を運ぶだろう。近くの常連になっている店は最近客層に難があり少し足が遠のいていたところなのだ。いい客を集める事が一番難しいことは分かっているし、山小屋も同じだと思っている。(12/Mar/1999 T.S.)

車を東に走らせているとふらふらと男が出てきてあわてて避ける。中年の男はまだ陽も高いのに酔っているようだ。その顔をみてビックリ。3/2付けの私の日記に出てきたアルトーに似たおっさんだった。こんなところで再会とは。今夜もあの店で飲んだくれるのだろうか。(14/Mar/1999 T.S.)

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